芸事について

やりたいこと、作りたいもの、色々と溜まっている。

裁縫分野では、友人に遅ればせながらの結婚祝いのエプロンセット、先述の自分用の巾着、リネンのリラックスキュロット、旦那スポーツ用の巾着、娘のスモックキャミソールとスカート、冬向けのズボンなど。今年中に、シャツも一着作ってみたい。それから、破れそうになっている愛用のPatagoniaのリュックに代わり、黒いシンプルなリュックも作りたい。型紙はみんな取り寄せてある。

今日のM響定演を聴いて、自分もやっぱりオケをやってみたいと思った。思えば、父親が大学オケでファゴットと指揮をやっていたのを背景に、4才からやり始めたピアノに加え、昼寝の際にベッドの上で母親に「バイオリンとかね、他の楽器もやってみたい」とはっきり言った小学1年生の頃。さっそく、ピアノの先生の紹介でヴァイオリンを習い始めた。とりあえず買ってもらったのはスズキの1/8。幼稚園の頃からコンクールで入賞していたピアノが主、のつもりでやり始めたけど、習い始めて一年以内に冷やかしで出場した関西のヴァイオリンのコンクールで、音程めちゃくちゃのくせに金賞(複数)を頂いた。審査コメントにも、「音程は悪いけど、音楽性に期待」と書かれたことをはっきり覚えている。たしか、2月の真冬のことだった。阪急京都線に乗って行ったことを覚えている。途中通った「そうじじ」という駅名が、「おそうじみたいだね」などと無邪気に喜んでいた。

コンクール入賞後に、親が結婚式で仲人をしたお礼金をはたいて、大阪市内のヴァイオリン工房にてドイツ製のオールド1/2を買ってくれたことを鮮明に記憶している。後から始めたヴァイオリン、大雑把な性格だから細かい練習はあまり真面目にやらなかったけど、身体ごと音楽を表現できる感覚が結構好きだった。

小学校3年生の4月に、転勤で広島に移住。例のヴァイオリンを手に持って新幹線を降り、広島駅前のターミナルホテルの客室でヴァイオリンを取り出して練習したことも覚えている。実は同月に、大阪のヴァイオリンの先生の発表会に出演予定で、ピアノでも子犬のワルツを弾く予定だった。

広島では、車で1時間近くかけて、桐朋出身の若い先生にピアノを習うことになった。当時は「夢はピアニストです!」と公言するくらいだったけど、その先生には「それなら、二足のワラジを履いてはならん」と一蹴された。ピアノについても「音が汚い」と言われ、タッチを矯正すべく「ドレ、ドレ」と単純で屈辱的な練習を涙ながらにやらされた。大阪では、コンクールのご褒美でハイドンのコンチェルトもやらせてもらった私が、という敗北感が親娘ながら凄かった。

また、大阪では大阪音大ソルフェージュ教室とヴァイオリン合奏に、毎土曜日楽しく通っていたが、広島では桐朋の子供のための音楽教室に通うことに。そこでも、ヴァイオリンをやっていることを言うと鼻で笑われた。結果、ヴァイオリンは封印された。出演予定の発表会もキャンセルせざるを得ない状況に。ピアノは徹底的なタッチ矯正の後、オクターブギリギリの手でモーツァルトの「きらきら星変奏曲」を演奏会で弾き、先生にも「モーツァルトらしい演奏ができましたね」と言ってもらえるには至った。

広島の小学校は制服で、なかなか古風で私は好きだった。嫌いだった体育も結構好きになって、今まで怖くてできなかった跳び箱も7段跳べるようになったり、リレーの選手に選んでもらったり。町内会の行事も楽しかった。町内のお祭りでカラオケ大会があると聞き、母親に促されて応募先の布団屋さんに走って行って「ロマンスの神様」をエントリー。走って行ったからトップバッター。ちなみに、カラオケボックスは歌好きの父親の影響で、小2から月1くらいで行って、今は亡きやしきたかじんを歌っていた。

でも1年後、姉の中学受験を機に、小4でまた大阪の自宅に戻る事に。タッチを矯正されて、だいぶクリアで綺麗な音も出るようになったし、ワンレッスン2万円の芸大の先生にも月1で通って音楽性も洗練されたつもりで、4年生ながら飛び級で5,6年生の部門に。ちょっとしたミスが原因で、ギリギリのところで全国大会に行けなかった。ショックで1ヶ月はピアノを弾けなくなった。

なぜかその頃、母親も「音大は一人暮らし含めて、お金かかり過ぎるわ。その割にピアニストにはなれんよ。リサイタル開いても、ホール代とか払ってたらそんなお金取れんらしいし」と急に現実的な事を言い出し、それからは「ピアノはレベルの高い趣味で」と言わされるようになった。実際、小学生の自分がどこまでピアノを愛していたのか分からないし、結局は親の引くレール。音大に行く気を失くしたからか年齢の問題からか、これまであった舞台度胸みたいなものも失われて、大きいミスもするようになっていた。

だから、中学受験を終えて中高の6年間は、「レベルの高い趣味で」を維持するためにピアノを続けていたようなもの。それでも何とか続けてセンター試験前の発表会にも出たし、ショパンもよく弾いていたけど、自分の意志という感じではなかった。一番好きだし上手く弾けたのは、サンサーンスとかメンデルスゾーンだったかな。小さい頃からよく楽譜を見ていたおかげで小1から極度の近眼にもなったが、譜面の初見がわりと得意で、コーラス部の助っ人や伴奏もやらせてもらった。歌でもピアノでも、人と合わせるのは本当に楽しかった。

だから大学入学時は、オケに入るつもりだった。ヴァイオリンをやっていた記憶も抜けきらなかったし、セカンドバイオリンにでも入れてもらおうかなーと思っていた。ところが、またしても母親から、いい学部に進学するためにはオケは忙しすぎやしないか?それに公演等々でお金がかかる、などと邪魔が入った。また、大学受験の塾で一緒だった友達がピアノをやっていて、「おまえ、うまいんやろ?」とピアノサークルを勧めてくれたので冷やかしに見に行ったところ、当時「私は下手くそ」という認識にまで至っていた私の演奏を誰かが「上手いね」と褒めてくれた。確かパラっと弾いたサンサーンスだったとは思うが。

そんな流れで、オケではなく個人競技のピアノを引き続きやることになった。ピアノのサークルでは4年間楽しく、色々な曲に挑戦することができた。それでも私は、まだオケをやりたいと思う。新居には実家から送られて来たグランドピアノと、幼時の1/8と1/2のヴァイオリンもあるのだが。

疎遠になってしまったファゴット吹きの父親が、結構チェロも好きだったように思う。私もいつからか、とてもチェロに憧れている。御殿場に越してから、急に音楽的なコネクションができ、私はチェロを貸していただくに至っている。

自分が最後までできなかったヴァイオリン、されど家にあるヴァイオリン、娘はとても似合っているように思う。几帳面で小器用な性格だし、体格に合ったサイズを選べば、むしろピアノより楽に音が出せるようにも思う。

今日のM響公演で、たまたまソリストのピアニストのお母様である老婦人の隣に座った。話を横耳に聞いていたら、「女が芸事にはまったら、家庭を壊すか身体を壊すかのどちらかだと言われ、私はあくまでも趣味ですからと言い続けて習っていたの」とのこと。手ほどきをした娘にもそのつもりでいたのだけど、気がつけば芸大に行って、結婚後もご主人(チェリスト)の理解あってピアノを続けられているとのこと。

きっと、そのお母様は80代だと思われるから1930年代生まれかと。「芸事」がそのように言われた時代もあったのかと思う一方で、何事も「趣味」で大成していない自分を思う時、「芸は身を助く」のではないか、という想いもまたこみ上げるのである。